フォルクスワーゲン(VW)の面白さは、カタログスペックの外側にあります。キーをひねった瞬間の素直さ、実用のために割り切り切った設計、そして“売れるまで作り直す”執念。
その源流をたどると、ビートル(Type 1)と、その後継を巡る「社運を賭けた試行錯誤」に行き着きます。今回は海外Wikipedia(英語版)に基づき、VWの開発裏話を“マニアック寄り”に掘ります。
■1:ビートルは「一発完成」ではない——Type 60試作と“走り込み”の狂気
ビートルの開発は、理想の物語というより、現場の泥臭さが濃い。1934年に「大人2人+子ども3人」「燃費条件」などの要求が突きつけられ、フェルディナント・ポルシェが開発契約を得てプロジェクトが動きます。ウィキペディア
ここで注目したいのが“試作車の数と距離”です。
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1935年:Type 60の試作車V1(セダン)/V2(カブリオレ)完成ウィキペディア
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1936年:追加のV3試作のテスト開始、ヒトラーがV3の1台を検分した記述もあるウィキペディア
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1937年:30台のW30開発車(ダイムラー・ベンツ製)が総計290万km(180万マイル)超の耐久テストウィキペディア
「走り込みで潰していく」姿勢が、この時点でVWの文化として刻まれているのが熱い。のちのゴルフで“地球縦断テスト”が出てくるのも、偶然ではありません。
さらに設計チーム名が明記されているのも、マニア的に刺さるポイントです。ボディ担当のErwin Komenda、エンジン担当Josef Kales、主任技師Karl Rabe、そしてVWバッジ考案者とされるFranz Xaver Reimspiess……「誰が何をやったか」が残っているのは、資料として強い。ウィキペディア
■2:戦後の“再起動”と、78,000回の改良——静かな狂気は続く
ビートルの歴史は戦前・戦中要素を含むため、語り口は慎重であるべきですが、戦後の再起動は純粋に工業史として興味深いです。工場再開に尽力した英軍将校Ivan Hirstが、英軍向けに2万台の発注を取り付けて操業を動かした、という流れが記載されています。ウィキペディア
そして“VWらしさ”を決定づけたのが、派手なフルモデルチェンジではなく、積み上げ型の改善です。ビートルは生涯で「78,000件以上の段階的アップデート」が行われたとされ、基本形が同じなのに中身が少しずつ洗練されていく。ウィキペディア
古い年式の個体ほど“素”で、後期ほど“煮詰まっている”。この味わいが、今も空冷VW沼を深くしています。
■3:「ビートル後継」は一筋縄じゃない——EA266中止と、EA337(のちのゴルフ)へ
70年代初頭のVWは、ロマンより生存が先でした。ビートル依存のビジネスが揺らぎ、市況・為替・競合の圧力が重なる中で、後継開発は加速します。Golf Mk1の記事には、当時の苦境(損失計上、米市場要因など)が具体的に書かれています。ウィキペディア
ここで“開発秘話”として一番おいしいのが、後継候補が複数走っていた点です。
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EA266:ポルシェ起源のプロジェクトで、横置きの水冷直4を客室後方床下に積む「リア・ミッド/RWD」案(かなり異端)ウィキペディア
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EA337:アウディ(Auto Union)由来のFWD技術を活かすプロジェクト(のちのゴルフ系譜へ)ウィキペディア
そして決定打。1971–75年にVWを率いたRudolf Leidingが就任後、EA266を止め、試作車50台のうち“2台を除いて解体”させた、という記述が出ます。ウィキペディア
ここ、クルマ好きなら背筋がゾクッとするはずです。走る試作車が50台あって、それをバラす。つまり「情」より「勝ち筋」を選んだ。
さらにデザイン面でもドラマがあります。トリノショーで“気に入った6台のうち4台がジウジアーロ作”と知り、VWが彼を招いたという流れが書かれており、到着早々に彼が見せられたのは分解されラベルが貼られたFiat 128だった、という描写まである。ウィキペディア
ライバルをバラして学ぶ。こういう泥臭さが、量産の強さになります。
■4:Passat B1——アウディ80の“影”をどうVWにするか
新世代VWの先鋒がPassat(B1、1973年)。ジウジアーロのモダンな外観で、機構的にはアウディ80と“ほぼ同根”の関係(fastback版の位置づけ)が明記されています。ウィキペディア
狙いも明確で、老いたType 3/Type 4の置き換えとして設計された、とされます。ウィキペディア
面白いのは、1977年の改良で「機械が似ているアウディ80との差別化」を図る意図が、メーカー側の狙いとして書かれている点です。室内騒音低減のための改良(マウントや排気系の見直し等)も含まれ、VWとしての“商品化”を詰めていく過程が見えます。ウィキペディア
要するに、同じ骨格でも「日常の手触り」をVW流に仕立て直した、ということ。
■5:Golf Mk1——“スワローテール”と地球縦断30,500kmテスト

ゴルフMk1は1974年に生産開始・発売開始とされ、初期ディテールとしてリアハッチの特徴的なラインが“Swallowtail”と呼ばれる、という記述まであります。ウィキペディア
こういう“初期型だけの癖”が、今の相場と沼を作るんですよね。
さらに開発車好きに刺さるのが耐久テスト。
1974年10月〜1975年1月に、ゴルフMk1を2台使ってアラスカのフェアバンクスからティエラ・デル・フエゴまで30,500km走破という、ほぼ地球の縦断テストが行われたと記載されています。ウィキペディア
“売る前に壊しておく”を本気でやるメーカーは、やはり信頼される。
名前候補が「Blizzard」「Caribe」だったが最終的に「Golf」になった、という話も含め、量産車の裏にある“会議室の迷走”まで覗けます。ウィキペディア
■6:Polo Mk1——Audi 50(K50)の“21か月開発”がVWの懐に入る
Poloの初代は「Audi 50のリバッジ」と明記されています。ウィキペディア
この双子関係の背景が、Audi 50側の記事だとさらに濃い。
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1968年頃からハッチバック構想が進み、プロジェクトK50開始
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わずか21か月で開発(短い!)ウィキペディア
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デザインはベルトーネのMarcello Gandini、Audi側のClaus Lutheが最終デザインをまとめたウィキペディア
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そして“わずか6週間後”にVW Poloとしても展開、より安価なエコノミー寄りの立ち位置にウィキペディア
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結果としてPoloが早々に優勢となり、Audi 50は1978年に終了(ブランドは上級化へ)ウィキペディア
つまりPoloは、VWがゼロから作った小型車というより、「グループ内の優秀な設計を、VW流に“普及モデル化”して勝った」車。
ドアを閉めた時の“軽すぎない音”や、道具としての割り切りの良さに、こうした出自がにじみます。
■まとめ:VW開発秘話の本質は「理想より現場」——そして、それが名車を作る
ビートルの試作と走り込み、戦後の積み上げ改良、後継開発での大胆な取捨選択、アウディ技術とデザイン人材の取り込み、そしてPassat→Golf→Poloで完成した“前輪駆動ファミリー”の布陣。
フォルクスワーゲンの開発秘話は、英雄譚というより「勝つための現実」が詰まっています。
クルマ好きとして言い切るなら、VWは“理屈が先に立つクルマ”です。だから年式やグレード違いを乗り比べるほど、開発の意図が手触りとして分かってくる。そこが、30~50代の趣味グルマ心をくすぐる最大のポイントだと思います。
■よくある疑問にお答えします(FAQ)
Q1. なぜVWはビートルの後継開発を急いだの?
A. ビートル販売の鈍化や競合の台頭、為替・景気要因などが重なり、70年代初頭に経営が厳しくなったことがGolf Mk1の解説で具体的に触れられています。ウィキペディア
Q2. Passat B1はなぜ「アウディ80の兄弟車」扱いされるの?
A. Passat B1がアウディ80と機械的に同一系で、Passatはfastbackバリエーションという位置づけで説明されています。ウィキペディア
Q3. ゴルフの開発で有名な“地球縦断テスト”って本当?
A. 1974年10月〜1975年1月にゴルフ2台でフェアバンクスからティエラ・デル・フエゴまで30,500km走った、とGolf Mk1の記事に記載があります。ウィキペディア
Q4. Poloは本当にAudi 50のリバッジ?どこが決定的?
A. Polo Mk1は「Audi 50のリバッジ」と明記され、Audi 50側でもPoloとしての再バッジ展開や、結果的にPoloが優勢になった流れが説明されています。ウィキペディア+1
Q5. “EA266”って結局なに?なぜ消えた?
A. 床下に横倒しの直4を積むリア・ミッド案の後継プロジェクトで、Leiding就任後に中止され試作の大半が解体された、とGolf Mk1の記事にあります。ウィキペディア
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