「駆け抜ける歓び」の裏に潜む“戦う血統”
「駆け抜ける歓び(Freude am Fahren)」――BMWが掲げるこのスローガンは、単なるキャッチコピーではない。
それは、戦後ドイツの復興期からモータースポーツの最前線まで、一貫して「走り」に人生を賭けてきた技術者たちの哲学そのものだ。そして、その理念をもっとも純粋な形で体現してきたのが、「M」の名を冠するBMWモータースポーツ部門、そしてその象徴とも言えるM3とM5である。
1970年代後半、BMWは「レースと市販車の垣根を限りなく薄くする」という野心的なビジョンを掲げ、1972年に「BMW Motorsport GmbH(現BMW M GmbH)」を創設。彼らの使命はただひとつ――レース由来の技術で“世界最強の市販車”を作ること。
その最初の答えが、1978年に登場した「M1」だった。そしてこのM1で培われたノウハウは、やがてM3、M5という2本の柱へと受け継がれていく。

第一章:E30 M3 ― レースに勝つためだけに生まれた“公道戦闘機”
1980年代初頭、グループA規定によるツーリングカーレースがヨーロッパ各地で盛り上がりを見せていた。ホモロゲーションモデルとして最低5000台の市販が求められたこのカテゴリーで、BMWは新たな勝利の方程式を描く。
それが**E30型M3(1985年発表)**である。
通常の3シリーズをベースにしているが、その中身はほとんど別物。空力のためにボディパネルの70%以上が専用設計され、Cピラーの角度すら見直された。リアウィンドウの角度がわずかに寝かされているのも、空気抵抗とダウンフォースの最適化のためだ。
心臓部には、BMW Motorsportが手掛けた名機S14型 直列4気筒DOHC 2.3Lを搭載。F1用M12/13エンジンをベースに開発されたこのユニットは、自然吸気で200PSを発揮し、レース仕様では300PS超に達した。高回転まで一気に吹け上がるそのフィーリングは、当時のクルマ好きの心を鷲掴みにした。
そしてM3は、DTM(ドイツツーリングカー選手権)で無双することになる。1987年のデビューイヤーから圧倒的な強さを見せ、DTMだけでなく、イギリスツーリングカー選手権(BTCC)や世界ツーリングカー選手権(WTCC)でもタイトルを総なめにした。
通算50以上の国際タイトル、1,500勝を超えるレース勝利――E30 M3は史上最も成功したツーリングカーと評されるまでになる。
「E30 M3は“走るためだけ”に存在する。快適装備はないが、ステアリングを握った瞬間、世界が変わる。」
──『Auto Motor und Sport』1988年5月号
第二章:M5 ― 高級サルーンの皮を被った“狼”
1984年、BMWはもう一つの挑戦を始めていた。
「サルーンでポルシェを追い回せるクルマ」を作るという無謀な目標のもと、5シリーズをベースにした初代**M5(E28)**が誕生する。搭載されたのは、当時のM1用直6 DOHC「M88/3」エンジン。3.5L NAから286PSを叩き出し、0-100km/h加速は6.5秒。1980年代前半としては驚異的な性能だった。
この「羊の皮を被った狼」は、ヨーロッパの富裕層の間で熱狂的な支持を集め、M5は“究極のスポーツサルーン”という新ジャンルを確立する。
1990年代に入り、E34型M5は直列6気筒「S38B36」へと進化。さらに3.8L化されたS38B38では340PSまでパワーアップし、ニュルブルクリンクでのテストでは当時のスーパーカーを凌駕するラップタイムを記録した。
「M5は、通勤にも使えるレーシングカーだ」
──『Car Magazine』1992年8月号
第三章:自然吸気黄金期 ― S54とS85が生んだ伝説
2000年代初頭、BMW Mは自然吸気エンジンの絶頂期を迎える。
E46 M3(2000年)に搭載されたS54B32は、最高出力343PS・8,000rpmまで吹け上がる直列6気筒NAエンジン。スロットルレスポンスは鋭く、当時のモータージャーナリストは「F1マシンの感覚を持つ量産車」と評した。
そして2005年、E60 M5に搭載されたS85B50 V10は、M史上もっとも狂気的なエンジンと呼ばれる。F1で培った技術をフィードバックし、507PS/8,250rpmという当時世界最強クラスの自然吸気パワーユニットを実現。10連スロットルボディ、個別点火コイル、油圧式バルブトロニックといったレーシングテクノロジーの塊だった。
「S85の咆哮は、ミュンヘンのエンジニアたちが“理性を捨てた証”だ」
──『Evo Magazine』2005年11月号
第四章:ターボ時代の幕開け ― F80 M3とS55が描いた新たな地平
2014年、M3とM4(クーペ)がフルモデルチェンジを果たし、「F80/F82」世代が登場した。
このモデルは、Mの歴史においてひとつの転換点だった。BMWは長年こだわってきた自然吸気エンジンを捨て、**3.0L直列6気筒ツインターボ「S55」**へと踏み切ったのだ。
この決断は、単なる燃費規制対応ではなかった。Mの技術者たちは、「ターボ化してもMらしさを失わない」ことを徹底追求した。
その結果生まれたS55は、431PS/550Nmを発揮し、わずか4.1秒で0-100km/hを駆け抜ける。だが驚くべきは数字ではない。ターボらしからぬ鋭いレスポンス、8400rpmまで回る高回転特性、ドライバーの意思に即応するスロットル――“NAの魂”を宿したターボだったのだ。
さらにこの世代では、ニュルブルクリンク北コースでの徹底的なテストが行われた。開発責任者のアルベルト・ビアーマンは、「ニュルで速くなければMではない」と語り、M3は量産車でありながらサーキット走行を前提としたブレーキ冷却構造や、ドリフト時の挙動制御までも細部まで詰め込んだ。
特に話題となったのが、2016年に登場したM4 GTSだ。ウォーターインジェクションシステムで500PSを達成し、ニュルブルクリンクで7分28秒という驚異的なラップタイムを記録。これは当時のポルシェ911 GT3 RSとほぼ同等の数字だった。
「M4 GTSは、まるでツーリングカー選手権のホモロゲーションモデルを再び手に入れたかのようだ。」
──『Top Gear』2016年4月号
第五章:F90 M5 ― 600馬力と4WDが生んだ“万能戦闘機”
M5の進化も止まらなかった。2017年に登場したF90 M5は、M史上最大のパラダイムシフトを遂げる。
最大のトピックは、M初のxDrive(4WD)システム採用だ。これまで「FRこそMの本質」と信じてきたマニアは動揺したが、M開発陣は明確な答えを用意していた。
「4WDは妥協ではない。より速く走るための“新しい武器”だ。」
S63B44T4 4.4L V8ツインターボは600PS/750Nmを叩き出し、0-100km/hは3.4秒。歴代最強の加速性能を手に入れたにもかかわらず、ステアリングフィールや挙動は従来のFRそのものだ。なぜなら、このxDriveはドライバーの操作に応じて完全FRモードへ切り替え可能であり、「FRの歓び」と「4WDの速さ」を共存させているからだ。
BMWはこのM5で、ラグジュアリーセダンの快適性と、サーキットを席巻する速さという“二律背反”を見事に融合させた。ニュルブルクリンク開発責任者のマルクス・ダルマイヤーは、「F90はM5史上もっとも万能なマシン」と語り、実際にサーキットでも街中でも“完璧すぎる”と評価された。
第六章:G80/G90 ― 賛否を超えて「M」は次のステージへ
2020年、M3とM4は「G80/G82」へとフルモデルチェンジ。巨大化したキドニーグリルは物議を醸したが、その中身はM史上もっとも洗練され、完成度の高いものとなった。
S58型 3.0L 直6ツインターボは510PSを誇り、M xDriveの採用で驚異のトラクションを実現。
0-100km/h加速は3.5秒台へ突入し、ニュルブルクリンクでは7分30秒を切るラップを記録した。
さらに、電子制御式LSD、アクティブサスペンション、可変ギア比ステアリングなど、最新の電子制御技術を惜しみなく投入し、「デジタル時代のM」として新たな領域へ踏み込んでいる。
M5(G90)に至っては、**4.4L V8ハイブリッド(727PS)**を搭載。電動化の波を逆手に取り、内燃機関と電動モーターの融合によって次元の異なるパフォーマンスを実現した。「Mらしさは失われるどころか、進化した」と開発責任者フランク・ヴァン・ミールは語る。
第七章:テストドライバーたちの証言 ― M開発の舞台裏
Mの開発史には、数々の知られざる逸話が存在する。
E30 M3のテストでは、当時DTMで活躍していたロベルト・ラヴァリアが「このクルマは、ステアリングで会話ができる」と評した。E60 M5のS85エンジン開発では、エンジニアが「まるでF1を公道に持ち込む気分だった」と語っている。
F80世代では、ドイツ・ニュルブルクリンクでのテスト中に激しいスコールが発生した際、Mの開発チームは敢えて走行を続行。滑る路面での挙動変化を解析し、電子制御LSDのアルゴリズム改良に役立てたという。
「Mは、天候に文句を言わない。すべての環境がテストラボだ。」と、ある開発者は笑う。
第八章:未来への布石 ― 電動化時代でも消えない“歓び”
2030年代に向けて、BMWは「M Performance EV」プロジェクトを進行中だ。すでにi4 M50やi7 M70といった電動Mが登場しており、次期M3も電動化の可能性が高いと言われている。
しかし、BMWは断言する。「電動化しても“Freude am Fahren”は不滅だ」と。
電動パワートレインならではの瞬発力と、Mが磨いてきたシャシー哲学が融合すれば、新しい“駆け抜ける歓び”が生まれる。
Mの哲学は、エンジン形式や燃料の種類に縛られるものではない。それは、ドライバーの意志にクルマが応える――ただそれだけの純粋な理念だ。
終章:「M」は終わらない ― レースと情熱が紡ぐ未来へ
E30 M3がツーリングカーを席巻したあの日から40年。M5が“羊の皮を被った狼”として世界を驚かせてから40年。
BMW Mは時代の流れに合わせて姿を変えながらも、「走りの本質」を一度たりとも見失わなかった。
それは、単なる高性能車のブランドではない。Mは、エンジニアたちの情熱と狂気、そしてレースで培われた血統の結晶だ。
アクセルを踏み込んだ瞬間に魂が震える――その感覚こそ、Mがこれまで守り抜いてきたものだ。
そしてこれからも、「駆け抜ける歓び」は進化し続ける。ターボ化も電動化も、すべては“走り”のための手段にすぎない。
Mの歴史は、まだ終わらない。いや、むしろここからが本当の始まりなのだ。




