BMWと聞いて、多くの人が思い浮かべるのはフロントエンジン、後輪駆動、そしてシルキーシックスだろう。
だが、その王道から大胆にはみ出したBMWが一台だけ存在する。
低いウェッジシェイプ。運転席の背後に置かれた直列6気筒エンジン。鋼管スペースフレームにFRP製ボディ。そして、ドイツ車でありながら開発の重要部分をイタリアに託した異色の成り立ち。
BMW M1、開発コードE26。
現在ではBMW Mの始祖として神格化されているが、その誕生過程は決して華やかな成功物語ではない。むしろ、提携先の経営不安、複雑すぎる生産工程、レギュレーション変更、ホモロゲーション取得の遅れという逆風が連続する、綱渡りのプロジェクトだった。
それでもBMWは、途中でこのクルマを見捨てなかった。
M1とは、速さだけでなく「完成させる執念」によって伝説になったスポーツカーなのである。
すべてはポルシェを追うために始まった
M1計画を強く推進した人物が、当時BMW Motorsport GmbHを率いていたヨッヘン・ニーアパッシュである。
彼が狙っていたのは、既存の市販車を改造したレーシングカーではなかった。レースで勝つための専用車を最初から設計し、必要な台数だけロードカーを生産する。つまり、ロードカーの延長線上にレーシングカーを置くのではなく、レーシングカーから公道仕様を派生させる発想だった。
標的は、国際スポーツカーレースで強大な存在感を放っていたポルシェである。M1はグループ4参戦を前提に、市販仕様400台の生産を目指して開発された。BMW Motorsport GmbHにとって、既存モデルをベースとしない初の完全新規開発車でもあった。
BMWが選んだレイアウトは、ブランドの伝統的なFRではなくミッドシップだった。
エンジンを乗員の背後、後輪の前に置けば、重量物を車体中央へ集められる。旋回性能、トラクション、空力設計の自由度を考えれば、純レーシングカーとして理にかなった選択だ。
ただし、それはBMWにとって未知の領域でもあった。
そこでニーアパッシュは、ミッドシップ・スポーツカーの経験を持つイタリアへ助けを求める。
BMWとランボルギーニ、夢の共同開発
M1計画の初期パートナーに選ばれたのは、ランボルギーニだった。
BMWがエンジンとモータースポーツ開発を担当し、ランボルギーニ側がシャシー設計、試作、車両製造に関与する。さらにデザインにはジョルジェット・ジウジアーロ率いるイタルデザインが参加するという、今見ても胸が熱くなる布陣である。
シャシーの基本となったのは鋼管スペースフレーム。ボディには軽量なFRPが採用された。
その造形には、ポール・ブラックが手掛けた1972年のコンセプトカー「BMW Turbo」のイメージが受け継がれている。ただしジウジアーロは、未来的だったBMW Turboの要素を整理し、量産車として成立するシャープなウェッジシェイプへと昇華した。
M1を横から眺めると、そのデザインが単なるスーパーカー風の演出ではないことが分かる。
低いノーズ、滑らかに傾斜するフロントウインドウ、短いオーバーハング、リアへ向けて立ち上がるボディライン。すべてがミッドシップのパッケージを包むために引かれている。
それでいて、リア左右にはBMWらしいキドニーグリルを連想させるエンブレム付きの意匠が置かれた。
どれほど異端でも、これはBMWなのだ。
そんな設計陣の意思表示にも見える。
プロジェクトを襲ったランボルギーニの経営危機
夢の独伊共同開発は、順調には進まなかった。
当時のランボルギーニは深刻な経営難にあり、M1の量産準備は予定どおり進まなくなる。BMWはホモロゲーション取得に必要な台数を期限内に用意できない可能性に直面した。
最終的にBMWはプロジェクトの主導権を取り戻し、1978年4月ごろまでにランボルギーニとの協力体制を解消したとされる。この時点で製作されていた試作車は、ごく少数だった。
普通の自動車メーカーなら、ここで計画を中止しても不思議ではない。
専用シャシー、専用ボディ、専用エンジンを持つ少量生産車は、ただでさえ採算を取りにくい。しかも、本来の目的だったレース参戦スケジュールまで狂い始めている。
だがBMWは撤退しなかった。
ランボルギーニ出身の技術者たちが設立したイタルエンジニアリングが開発の仕上げに関与し、M1は複数企業をまたぐ分業体制で量産されることになる。
この生産方法が、また途方もなく複雑だった。
イタリアを巡り、最後にミュンヘンへ向かったM1
M1のボディとシャシーは、一つの工場で完成したわけではない。
鋼管フレームはモデナのマルケージ、FRPボディはレッジョ・エミリアのTIRが製造。ボディと内装の組み付けはイタルデザインが担当し、その後、車両はドイツのバウアへ運ばれた。
BMW製M88/1エンジンを搭載して最終組み立てを行った後、完成車はミュンヘンのBMW Motorsportへ送られ、検査と出荷準備を受けた。
つまりM1は、ドイツとイタリアをまたぐリレー方式で作られていたのである。
現代の効率化された生産ラインとは対極にある。各地の専門家が、それぞれの得意分野を担当しながら一台ずつ完成させる。
それは量産車というより、工業製品の姿をしたコーチビルド作品に近い。
生産が遅れた理由も理解できる。だが同時に、この複雑な誕生経路こそが、M1を唯一無二の存在にしたともいえる。
ボディはイタリア、心臓はミュンヘン、魂はサーキット。
これほど多国籍でありながら、完成すると紛れもなくBMWに見えるクルマは珍しい。
M88/1――のちのBMW Mを支えた直列6気筒
M1の心臓部には、3,453ccの直列6気筒DOHC24バルブ、M88/1型エンジンが搭載された。
機械式燃料噴射を採用し、市販仕様の最高出力は277ps。最高速度は約262km/h、0-100km/h加速は5.6秒とBMW公式資料に記録されている。1970年代後半のロードカーとしては、まさに一級の性能だった。
注目すべきは、単にパワーが大きかったことではない。
BMWが長年磨いてきた直列6気筒の滑らかさと、高回転型レーシングエンジンの鋭さを共存させていた点にある。
フェラーリやランボルギーニの多気筒エンジンとは違う。V8でもV12でもない。
BMWはスーパーカーを作るために、自社のアイデンティティーを捨てなかった。
このM88系ユニットは、後にM635CSiや初代M5へ連なる高性能直列6気筒の系譜を築く。M1自体は少量生産に終わったが、その心臓はBMW Mの未来を長く鼓動させることになった。
間に合わなかったレーシングカー
M1最大の皮肉は、レースに勝つために生まれながら、開発遅延によって本来の戦場へ間に合わなかったことだ。
ホモロゲーション取得には規定台数の生産が必要だったが、複雑な製造体制では短期間に台数をそろえられない。さらにレース規定の変化も重なり、当初思い描いた計画は崩れていった。
そこでBMWが打ち出したのが、M1だけで争うワンメイクレース「BMW M1 Procar Championship」である。
F1のヨーロッパラウンドに合わせて開催され、現役F1ドライバーとツーリングカーの強豪が、ほぼ同条件のM1 Procarで激突した。BMWは参戦機会を待つのではなく、自分たちでM1の舞台を作ってしまったのだ。
Procar仕様は、市販車とは別物と呼べるほど過激だった。
大きく張り出したフェンダー、巨大なリアウイング、深いフロントスポイラー。そして高出力化された直列6気筒。
低く構えたM1が、甲高い吸気音を響かせながらF1ドライバーの手で競り合う光景は、ホモロゲーションの遅れという弱点を一気に伝説へ変えた。
計画どおりに進まなかったからこそ、Procarは生まれた。
失敗が、最も美しい副産物を生んだのである。
アンディ・ウォーホルはM1を「走る絵画」にした
M1には、アートの世界でも有名な一台が存在する。
BMW Art Carの第4作としてアンディ・ウォーホルが手掛けたM1だ。
ウォーホルは模型や設計図ではなく、実車へ直接ペイントした。完成した車両は1979年のル・マン24時間レースに出場し、アート作品でありながらレーシングカーとして実戦を走った。BMW公式資料でも、このM1はブランドを代表するArt Carの一台として紹介されている。
美術館で静止するための作品ではない。
高速で走ることによって色彩が混ざり、初めて完成する絵画。
ミッドシップ、直列6気筒、ジウジアーロ、ウォーホル、ル・マン。
一台のクルマに盛り込むには濃密すぎる物語だが、それを成立させてしまうのがM1という存在だった。
生産台数453台という希少性
M1の生産期間は1978年から1981年。一般に総生産台数は453台とされ、そのうち399台がロードカー、残る車両が競技用だったと伝えられている。
大量生産には程遠い。
ホモロゲーションモデルとして見ても、商業的な大成功とは言いにくい。
それでもM1は、BMWの歴史に残った。
なぜなら、このクルマが示したのは販売台数ではなく、BMW Motorsportが独自のロードカーを一から作れるという事実だったからだ。
M1の後、BMW MはM5やM3という別の答えを選ぶ。
専用ミッドシップ・スーパーカーを量産するのではなく、日常的なセダンやクーペへレーシングテクノロジーを注ぎ込む。普段使えるボディに、異常なほど濃密なドライビング体験を詰め込む。
それこそが、後のBMW Mを世界的ブランドへ押し上げる哲学となった。
M1は失敗作だったのか
計画だけを見れば、M1には失敗の要素が多い。
生産は遅れ、提携は崩れ、規則は変わり、当初のレース計画は達成できなかった。
しかし、名車の価値は、計画どおりに進んだかどうかだけでは決まらない。
M1が存在しなければ、BMW Mのロードカー史は違ったものになっていた可能性が高い。M88系エンジンの発展も、Procarの熱狂も、ウォーホルのArt Carも生まれなかったかもしれない。
何よりM1は、BMWが合理性だけでクルマを作るメーカーではないことを証明した。
採算が悪くても、遠回りでも、レースで勝つために必要ならミッドシップを作る。トラブルが起きても、自分たちの手で完成まで持ち込む。
M1のボディを流れる直線は冷静だ。
だが、その開発物語は驚くほど人間臭く、熱い。
BMW M1は、完璧な計画から生まれた名車ではない。
崩れかけた計画を、情熱と執念で完成させたからこそ名車になったのである。
FAQ
BMW M1はBMW初のミッドシップ車ですか?
BMWの量産ロードカーとしては、M1が初の本格的なミッドシップ・スポーツカーです。BMW Motorsport GmbHが既存の量産モデルをベースにせず開発した、最初の専用モデルでもあります。
BMW M1のエンジン型式は何ですか?
市販仕様にはM88/1型の3,453cc直列6気筒DOHC24バルブエンジンが搭載されました。最高出力は277psです。
BMW M1をデザインしたのは誰ですか?
基本デザインを手掛けたのは、イタルデザインのジョルジェット・ジウジアーロです。1972年に発表されたポール・ブラック作のBMW Turboから着想を得ています。
なぜランボルギーニが開発に関わったのですか?
当時のBMWには、ミッドシップ・スーパーカーを短期間で開発・生産する経験が十分ではありませんでした。そのため、シャシー設計や試作、生産準備のパートナーとしてランボルギーニが選ばれました。
M1はレースで活躍しましたか?
当初計画したカテゴリーへの参戦は生産遅延などで難航しましたが、専用ワンメイクレースのM1 Procar Championshipが開催されました。また、グループ4仕様やグループ5仕様も各種レースに投入されています。
BMW M1の生産台数は何台ですか?
一般に総生産台数は453台とされます。資料によって競技車両と市販車の内訳表現に差があるため、個別車両の判定にはシャシーナンバーやBMW Group Archiveの確認が必要です。
参考URL
BMW Group Classic「BMW M1(E26)」
BMW M「BMW M1: from Procar to icon」
BMW Group Press「Thirty Years of the BMW M1」
BMW M「The BMW M1 Procar」
Italdesign「M1」
英語版Wikipedia「BMW M1」
補足・確認点
BMW Group Classicの一部英語ページでは、最終組立企業が「Bauer」と表記される箇所がありますが、自動車史上一般的に知られるドイツのコーチビルダー名は「Baur」です。本稿では一般的な表記に合わせて「バウア」としました。
また、生産台数453台の内訳は資料によって数え方に差があります。厳密なロードカー、Procar、グループ4、グループ5の分類には、BMW Group Archiveまたは個体ごとの車両履歴確認が必要です。
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